Ski Association of Kamakura

発足から・・・回顧録 

雪とスキ-の思い出50年               スキ-協会会長 高 橋 辰 夫

       

昭和11年1月5日、私は東京中野の近衛電信第一聨隊有線第三中隊に初年兵として入隊した。この冬は例年になく太平洋を低気圧が発達しながら通って一週に一度は20㎝以上の大雪が降った。生まれて初めての軍隊生活の大雪、然かも毎週の降雪に営内靴や靴下はびしょびしょ、初年兵の夜のモ-ルス信号の夜間演習には兵舎から広い営庭を通って通信講堂に   行くので足が冷たくなって苦しんだものである。そして、あの有名な二月二十六日、二二六事件が起こった。中隊の古年次兵は非常用の通信網の構築に出動していった。そこで弾薬庫の歩哨に幹部候補生の志願者の初年兵が立つ事になった。何時反乱軍が戦力の弱い電信隊の弾薬をとりにくるかわからないと言う状況の中で大雪の中の歩哨勤務であった事件のあと外出は引率外出の中で幹部候補生の試験に合格して十二月末に甲種幹部候補生で除隊した。年が明けて東京電気(今の東芝)に入社した。仕事は電球課の特殊電球の見積係であった。見積の仕事は製造課の○氏と毎日打合せや書類のやりとりがあるこの○氏に誘われて初めてスキ-行にいくことになった。軍隊でさんざん痛め付けれた雪、その雪の上のスポ-ツ、すいすい滑れたらどんなに楽しいだろうと言う思いがあってこの誘いにとびついたのだ。

最初と二回目は地蔵峠を登って鹿沢温泉泊り大きな掘炬燵に皆で放射上に足を入れて寝たのもなつかしい。初日は地蔵峠付近の斜面と温泉近くの斜面でボ-ゲンの練習、二日目はシ-ルを付けて角間峠に登り144号線の鳥井峠までの尾根の長い滑行である。 そして三度目が奥日光赤沢の遭難である。遭難には必ず前に何か前兆があると言う、この時6人は赤城にスキ-に行くべく新橋駅に集合した。
そこでリ-ダ-のO氏の決断で奥日光に変更になった。我々5人は只それについて行った。3月18日は快晴で気温は時間の経過と共に上昇して来た。戦場ヶ原から湯元温泉を過ぎて一行は林の中を高度を上て行った。
当時のスキ-行は長い滑降を楽しむ山スキ-なので気温も地形も考えずリ-ダ-が行動し、わたくしたちがついて行って最もナダレの危険な赤沢の途中まで入り込んでナダレに会ってしまった。幸いなことに皆んなスキ-を脱いで写真をとったり、正面の「オイヅル岩」から落ちるブロック雪崩を歓声を上げて見とれていた事だった。
傷の一番ひどいのはリ-ダ-の頭部骨折座傷で雪にまざった石塊で打ったものだった。もう一人は左腕の骨折だった。思うにこの雪崩は赤沢最上部の雪庇が雪崩、途中雪の消えた場所の石や土を巻き込んで落下して来たものであった。東武電車の最終を我々の為に待たせて浅草に帰り着き横須賀線の終電車で自宅にスキ-も、リュック、雪崩の下で裸一貫帰り着いてズボンを脱いだら左足の膝の上部が出血していた。白樺につかまって雪崩をさけていた時、腰まで雪に埋まったその時受けたのだが友達のことに心が一杯で痛みを感じなかった。
翌日会社へ出たのは私一人、今朝の朝刊各紙は大見出しで「又も奥日光で東京電気社員雪崩で遭難と報じていた。出社して営業部長に報告すると東武はうちの大切なお得意だから直ぐお礼に行きなさいと言われ浅草の東武へ秘書課長とお礼に行った。この遭難のあと私と山岳遭難の本を手当たり次第に買って読んだ。今でも私の書棚に弐拾冊を越える蔵書が在る。この年の7月になって北海道の札幌出張所に転勤を命ぜられた。これで思い切りスキ-ができると喜び勇んで途中八甲田を一回り道草をして札幌へ赴任した。札幌出張所の私の受け持ちは自家用といって炭鉱、工場、それに札幌鉄道局と電灯会社では小さな日高電灯と鬼脇村電気部だった。
私にとって札幌鉄道局を受け持った事は幸運だった購買課の係りから審査課の矢北幸雄を紹介された。以後北海道のスキ-行は矢北君のグル-プと一緒に行動することになる。矢北氏は伊吹山の第三回全日本スキ-大会の回転で第三位になった男で札鉄では名の通ったスキ-ヤ-で又山岳初心の名手でもあった。 11月23日夜行で石北線のニセイカウシュッペ(1879m)に出掛けたが雪不足で山麓で遊んで帰ってきた。12月末から正月三日までニセコの山田温泉に泊まって連日ニセコの山頂からの粉雪の大滑降あとは温泉の直ぐ裏の斜面で回転の練習と北海道のスキ-を満喫する。そしてこの年矢北君のグル-プと奥手稲春香山、無意根山の山スキ-、出掛けないときは札幌神社裏の新井山スキ-場でスキ-を楽しんだ。北海道の厳冬期のスキ-はダイヤモンドダストの輝きに見とれ霧氷の花咲く木々の風景を楽しみパウダ-スノ-の滑降と内地では想像もできなかったスキ-の素晴らしさにすっかり虜になった。そして冬になると五十余年昔のスキ-を昨日の様に思い出す雪が消えると矢北君はテニス他の仲間も夫々のスポ-ツに別れて行く。私は北海道の山登りに精を出した。単独行の時は熊に注意して豆腐屋のラッパを危険と思われる場所では吹いて歩いた。恵庭岳の五合目の登山道で真新しい熊の糞を見つけて急いで丸駒温泉に下ったこともあった。昭和15年の冬期は芦別岳二月の天塩岳そして3月31日の羊蹄山などへ行った。又樺太が受け持ちになったので稚内から砕氷船の亜庭丸で豊原に渡った。スキ-を着けて豊原のスキ-場に出てみたが横殴りの強風そして斜面はアイスバ-ンと吹き溜まりの交互の斜面で草々に脱いでしまったが、商売のほうは厳冬期に樺太に渡るセ-ルスマンは皆無とあって行く先々のお得意様に歓迎されたくさんの御土産の注文を頂いた。

昭和16年7月東京に転勤を命ぜられ数寄屋橋のビルで小型電動機の係りになった。昭和16年春頃から午後4時頃になると盲腸が痛む様になった。應召を受けて外地で盲腸炎になったら大変だと10月3日に思
い切って新大久保の病院で手術を受けたら3日目に召集令状が来た。これが私の兵隊での運のつき始めか終戦は奉天で迎え9月3日の夜、材料厰の兵隊70名に現地での除隊証明書を渡して解散し、私も東芝の子
会社の社宅に逃げて昭和21年10月鎌倉に帰った。
昭和30年代に入って食料事情も大体落ち着いてきた昭和34年湯元の赤沢の遭難現場を見にスキ-で入った。子供達も皆スキ-を楽しむ様になったので会社にスキ-一式を15組ばかり揃えて社員皆で奥日光
へ毎年スキ-に出掛けるようになった。昭和37年鎌倉スキ-協会が誕生して私が只スキ-歴が長いと言う理由で会長になった。今年でスキ-協会は30周年を迎える、私も馬齡77年を迎えた。
私が会長になって市民スキ-の思い出は蔵王の教室である。宿舎の手配やバスの手配も全部自分でやった樹氷原の中の講習は参加された方々にも良い思い出となっていると思う。スキ-場が年々スポ-ツランド化してゆく中で蔵王や八方尾根の様な冬山の景観をもったスキ-場でスキ-を楽しませたいと言う思いが人一倍強いのかも知れない。鎌倉のスキ-協会の郡市対抗も国鉄大船工場のノルディックと三井東圧を主力とするアルペン陣を加えて菅平では一時横浜と首位を競う場面もあったが総合2位に終わったのが最高位だった。私は競技は監督に任せて専ら食料に心を配った。二月末、七里ガ浜の海へ入って天然わかめを採って毎回持って行くのが楽しみだった。その天然のわかめも昭和60年頃から磯が荒れてまったく採れなくなってしまった。昭和58年2月佐藤会長を名誉会長にして山田君を体育協会の会長が実現したが在任9か月で逝去しそのあとが私に回ってきた体育協会会長を引き受けたこともあってスキ-協会はすっかり役員任せになってしまった。毎年楽しみにしていた郡市も戸隠から野辺山に移って一度も顔を出さなくなった、体育協会会長も平成元年9月ブ-タンに出掛けブ-タンの国技の弓の国際交流を成功させ帰路印度で痛風が発病したのを機会に体育協会会長を辞任した、足掛け7年の任期であった。雪とスキ-の思い出が兵隊あり戦争あり又遭難あり国際交流ありと思い出すまま書いてきたが市民スキ-、郡市の思い出は競技の出場者や市民スキ-の先生方の立場の方々の投稿をお願いしてこの辺りで私の思い出を終わるが最後に次の会長にはスキ-歴に加えて競技にも指導力のある方になってもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スキ-協会会長 高 橋 辰 夫

昭和11年1月5日、私は東京中野の近衛電信第一聨隊有線第三中隊に初年兵として入隊した。この冬は例年になく太平洋を低気圧が発達しながら通って一週に一度は20㎝以上の大雪が降った。生まれて初めての軍隊生活の大雪、然かも毎週の降雪に営内靴や靴下はびしょびしょ、初年兵の夜のモ-ルス信号の夜間演習には兵舎から広い営庭を通って通信講堂に行くので足が冷たくなって苦しんだものである。そして、
あの有名な二月二十六日 二二六事件が起こった。 中隊の古年次兵は非常用の通信網の構築に出動していった。そこで弾薬庫の歩哨に幹部候補生の志願者の初年兵が立つ事になった。何時反乱軍が戦力の弱い電信隊の弾薬をとりにくるかわからないと言う状況の中で大雪の中の歩哨勤務であった事件のあと外出は引率外出の中で幹部候補生の試験に合格して十二月末に甲種幹部候補生で除隊した。年が明けて東京電気(今
の東芝)に入社した。仕事は電球課の特殊電球の見積係であった。見積の仕事は製造課の○氏と毎日打合せや書類のやりとりがあるこの○氏に誘われて初めてスキ-行にいくことになった。軍隊でさんざん痛め付けれた雪、その雪の上のスポ-ツ、すいすい滑れたらどんなに楽しいだろうと言う思いがあってこの誘いにとびついたのだ。
最初と二回目は地蔵峠を登って鹿沢温泉泊り大きな掘炬燵に皆で放射上に足を入れて寝たのもなつかしい。初日は地蔵峠付近の斜面と温泉近くの斜面でボ-ゲンの練習、二日目はシ-ルを付けて角間峠に登り144号線の鳥井峠までの尾根の長い滑行である。 そして三度目が奥日光赤沢の遭難である。遭難には必ず前に何か前兆があると言う、この時6人は赤城にスキ-に行くべく新橋駅に集合した。
そこでリ-ダ-のO氏の決断で奥日光に変更になった。我々5人は只それについて行った。3月18日は快晴で気温は時間の経過と共に上昇して来た。戦場ヶ原から湯元温泉を過ぎて一行は林の中を高度を上て行った。
当時のスキ-行は長い滑降を楽しむ山スキ-なので気温も地形も考えずリ-ダ-が行動し、わたくしたちがついて行って最もナダレの危険な赤沢の途中まで入り込んでナダレに会ってしまった。幸いなことに皆んなスキ-を脱いで写真をとったり、正面の「オイヅル岩」から落ちるブロック雪崩を歓声を上げて見とれていた事だった。
傷の一番ひどいのはリ-ダ-の頭部骨折座傷で雪にまざった石塊で打ったものだった。もう一人は左腕の骨折だった。思うにこの雪崩は赤沢最上部の雪庇が雪崩、途中雪の消えた場所の石や土を巻き込んで落下して来たものであった。東武電車の最終を我々の為に待たせて浅草に帰り着き横須賀線の終電車で自宅にスキ-も、リュック、雪崩の下で裸一貫帰り着いてズボンを脱いだら左足の膝の上部が出血していた。白樺につかまって雪崩をさけていた時、腰まで雪に埋まったその時受けたのだが友達のことに心が一杯で痛みを感じなかった。
翌日会社へ出たのは私一人、今朝の朝刊各紙は大見出しで「又も奥日光で東京電気社員雪崩で遭難と報じていた。出社して営業部長に報告すると東武はうちの大切なお得意だから直ぐお礼に行きなさいと言われ
浅草の東武へ秘書課長とお礼に行った。この遭難のあと私と山岳遭難の本を手当たり次第に買って読んだ。今でも私の書棚に弐拾冊を越える蔵書が在る。この年の7月になって北海道の札幌出張所に転勤を命ぜられた。これで思い切りスキ-ができると喜び勇んで途中八甲田を一回り道草をして札幌へ赴任した。札幌出張所の私の受け持ちは自家用といって炭鉱、工場、それに札幌鉄道局と電灯会社では小さな日高電灯と鬼
脇村電気部だった。
私にとって札幌鉄道局を受け持った事は幸運だった購買課の係りから審査課の矢北幸雄を紹介された。以後北海道のスキ-行は矢北君のグル-プと一緒に行動することになる。矢北氏は伊吹山の第三回全日本スキ-大会の回転で第三位になった男で札鉄では名の通ったスキ-ヤ-で又山岳初心の名手でもあった。 11月23日夜行で石北線のニセイカウシュッペ(1879m)に出掛けたが雪不足で山麓で遊んで帰ってきた。12月末から正月三日までニセコの山田温泉に泊まって連日ニセコの山頂からの粉雪の大滑降あとは温泉の直ぐ裏の斜面で回転の練習と北海道のスキ-を満喫する。そしてこの年矢北君のグル-プと奥手稲春香山、無意根山の山スキ-、出掛けないときは札幌神社裏の新井山スキ-場でスキ-を楽しんだ。北海道の厳冬期のスキ-はダイヤモンドダストの輝きに見とれ霧氷の花咲く木々の風景を楽しみパウダ-スノ-の滑降と内地では想像もできなかったスキ-の素晴らしさにすっかり虜になった。そして冬になると五十余年昔のスキ-を昨日の様に思い出す雪が消えると矢北君はテニス他の仲間も夫々のスポ-ツに別れて行く。私は北海道
の山登りに精を出した。単独行の時は熊に注意して豆腐屋のラッパを危険と思われる場所では吹いて歩いた。恵庭岳の五合目の登山道で真新しい熊の糞を見つけて急いで丸駒温泉に下ったこともあった。昭和15年の冬期は芦別岳二月の天塩岳そして3月31日の羊蹄山などへ行った。又樺太が受け持ちになったので稚内から砕氷船の亜庭丸で豊原に渡った。スキ-を着けて豊原のスキ-場に出てみたが横殴りの強風そして
斜面はアイスバ-ンと吹き溜まりの交互の斜面で草々に脱いでしまったが、商売のほうは厳冬期に樺太に渡るセ-ルスマンは皆無とあって行く先々のお得意様に歓迎されたくさんの御土産の注文を頂いた。

昭和16年7月東京に転勤を命ぜられ数寄屋橋のビルで小型電動機の係りになった。昭和16年春頃から午後4時頃になると盲腸が痛む様になった。應召を受けて外地で盲腸炎になったら大変だと10月3日に思
い切って新大久保の病院で手術を受けたら3日目に召集令状が来た。これが私の兵隊での運のつき始めか終戦は奉天で迎え9月3日の夜、材料厰の兵隊70名に現地での除隊証明書を渡して解散し、私も東芝の子
会社の社宅に逃げて昭和21年10月鎌倉に帰った。
昭和30年代に入って食料事情も大体落ち着いてきた昭和34年湯元の赤沢の遭難現場を見にスキ-で入った。子供達も皆スキ-を楽しむ様になったので会社にスキ-一式を15組ばかり揃えて社員皆で奥日光
へ毎年スキ-に出掛けるようになった。昭和37年鎌倉スキ-協会が誕生して私が只スキ-歴が長いと言う理由で会長になった
今年でスキ-協会は30周年を迎える、私も馬齡77年を迎えた。
私が会長になって市民スキ-の思い出は蔵王の教室である。宿舎の手配やバスの手配も全部自分でやった樹氷原の中の講習は参加された方々にも良い思い出となっていると思う。スキ-場が年々スポ-ツランド化してゆく中で蔵王や八方尾根の様な冬山の景観をもったスキ-場でスキ-を楽しませたいと言う思いが人一倍強いのかも知れない。鎌倉のスキ-協会の郡市対抗も国鉄大船工場のノルディックと三井東圧を主力とするアルペン陣を加えて菅平では一時横浜と首位を競う場面もあったが総合2位に終わったのが最高位だった。私は競技は監督に任せて専ら食料に心を配った。二月末、七里ガ浜の海へ入って天然わかめを採って毎回持って行くのが楽しみだった。その天然のわかめも昭和60年頃から磯が荒れてまったく採れなくなってしまった。
昭和58年2月佐藤会長を名誉会長にして山田君を体育協会の会長が実現したが在任9か月で逝去しそのあとが私に回ってきた体育協会会長を引き受けたこともあってスキ-協会はすっかり役員任せになってしまった。毎年楽しみにしていた郡市も戸隠から野辺山に移って一度も顔を出さなくなった、体育協会会長も平成元年9月ブ-タンに出掛けブ-タンの国技の弓の国際交流を成功させ帰路印度で痛風が発病したのを機会に体育協会会長を辞任した、足掛け7年の任期であった。
雪とスキ-の思い出が兵隊あり戦争あり又遭難あり国際交流ありと思い出すまま書いてきたが市民スキ-、郡市の思い出は競技の出場者や市民スキ-の先生方の立場の方々の投稿をお願いしてこの辺りで私の思い出を終わるが最後に次の会長にはスキ-歴に加えて競技にも指導力のある方になってもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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